福岡へ、
お別れをしに行ってきた。
初めて心が出会ったのは1998年はじめ頃だったと思う。
開拓の師匠ノースマウンテン氏が屋久島の本冨岳に開拓できそうな魅力的な壁を見つけてチームメンバーを集めていたとき。D助の出身地であり国体成年男子チームメートであったTピロと初めて出会った。
初対面のとき、年下だった彼には本能的に全てを託せる(もちろん命を)ものを感じて、なにも知らないのにお互い堅い握手を交わした。
のちにそのときの直感は正しかったことは、まだ若かった自分には正確には理解出来ていなかった。
5月に最初の偵察を兼ねて、そのときのすでに初登から30年以上経ていた福岡山の会ルート(エイドルートでA2をふたりで再登した。
もちろん腐りきってリングの無いリングボルトラダーを、4ミリの細引きを僅かに残っているボルト芯の根本にタイオフして、最高11本の連続アブミして5ピッチまで登った。
そこまで到達したときに南国特有の、いまでは全国的に普通になったゲリラ豪雨に遭った。
当然、敗退。
自分がリードしているときに降りだしたけど、新たにボルトを埋めない限り降りられない状況。
それなりにピッチを切れるぐらいの安定した形状のコーナーにたどり着いたときには雨は本降り。
すぐにジャンピングで下降支点を作り懸垂をする。
ひとつしたのピッチ終了点で待っていた彼は、グルーヴ状のビレイポイントはちょうど流水溝になっていて、その様はさながら滝に打たれる修行僧。下半身は完全に流水に飲まれていた。
それでもなにごともないように次の懸垂に移る作業を続ける姿を見て、
そのとき生まれて初めて全てを信頼できるパートーナーを見つけたと確信した。
その秋。
連日の開拓作業の末、完成したルートは
「水の山」10ピッチ、5.12c
彼が29歳、自分が32歳。
7ピッチまでがフリー化。初登は1966年。ちょうど自分が産まれた年。
後半の腹這いトラバース途中からオリジナルで直登。
Tピロが担当した8ピッチ目はグレードこそ5.11Cだが、あそこまで完璧にホールド、スタンスが奇跡的につながっているルートを、31年のクライミング歴のなかでいまだかつてない。
ひとつのホールドも、ひとつのスタンスも、無駄がない。
返せば、どれひとつ欠けたら重大な変化につながる、ということ。
そして、内容がすこぶる良い!
初登はそれぞれ奇数偶数ピッチでボルトを埋めて、それぞれ担当のピッチをRPするまでツルベで登った。
だから、相手のピッチはフォローでしか登っていない。
その後、初登からすでに17年が経つ水の山だけど、いまだに再登は聞かない。
出来れば、酔狂につきあう奇特な信頼できるクライマーがいれば、TピロのピッチをすべてRPしてみたい。
そんな夢が叶うなら、交通費とか諸経費を全てを自分が負担してもいいと思っている。
翌年、自分の屋久島にあるマイプロジェクトのトレーニングを兼ねて、1999年は「ミテミテツアー」に出た。
前半はヨセミテ。
後半はドロミテ。
ヨセミテにはひとつき近く滞在して、ハネムーンを兼ねたTピロとたくさん登った。
なかでもアストロマンは思い出深い登攀だった。
毎日登って、夜のとばりが降りる頃にキャンプ4に帰ると、ヤブカにボコボコにされながら夕飯を作って待っている新婦のKなえちゃん、本当にありがとう!毎晩美味しい夕飯を作ってくれて天国だった(笑)
そして、
途中から合流したMーシー。
君ともいつまでも一緒に登りたかった。
いまは、違う道を歩んでいるけれど、今日の弔辞は、心を打たれたよ。
またいつかきっと一緒に登れる日を、待っている。
Tピロとは、文字通り家族ぐるみでお付き合いさせてもらって、一時は、自宅の3階に「飯山家の部屋」なるものまで用意してくれたっけ。
いまじゃ、
天国に顔向け出来ないぐらい、自分はしっちゃかめっちゃかだけど、
それも人生。
どんだけダメダメでも、生きている限り、
Tピロに恥ずかしくない余生を完全燃焼したいと、今日、改めて君に誓ったよ。
親友と呼べるひとは、あまり多くないけど、
今日は、本当にこたえたよ。
思うところあって大好きなビールを断っている。
しかし今日は久しぶりに献盃して、飲めるだけ飲んだ。
苦かったな。
こんな酒はあまり飲みたくないけど、
今日は特別。
いずれ、
必ず、
自分もそちらに行くけど、
そのときはあの世で、
乾杯したいね。
それまでは、
もがいて、
見苦しいぐらいに、
もがいて、
そして、
生きるよ。
さようなら。
いままで本当にありがとう。