2015年7月26日日曜日

生まれ変わる加須壁

関東ブロック大会後。

ひっそりとセレモニー。

14年間使われたピラミッド社製のFRP壁4面を、来月からの改修工事ですべて合板パネルに交換と、若干の形状変更をするそうです。
それに先だって、数々のドラマを創ってきた壁に対してのお別れ会です。

自分は、出来た当初からほぼ毎年、地元加須カップに始まり、ジャパンカップからワールドカップまで、実にたくさんのコンペのセットや壁建て、復旧作業や、普段の利用のためのルートセットをやらせてもらいました。

たくさんの思い出があります。

それらは壁というよりは、どうしても理解できないぐらい結束が固くて情熱的な加須のスタッフさんや、様々なドラマを演じてくれた選手たちにあります。

中でも2004年の埼玉国体は思い出深い。
セッターのAキトがインフルエンザ疑惑の高熱でダウンした大会前日。
フル稼働でセットを進める夕方に、中越地震の大きな揺れが体育館を大きく揺さぶりました。
自分はその時D壁のてっぺんにいて、あまりにバッタんバッタん揺れるのでS太がいたずらしてるのか?と思って怒鳴ったら、なんと左の壁から彼の声が!
瞬間的に「死ぬな」と思ってセルフを解除。
次の瞬間に来るだろう倒壊に備えて、地面スレスレで上空にジャンプすれば骨折ぐらいで済むんじゃないか?と考える前に本能がそうしていた。

幸い倒れなかったけど、続く余震を事務室でみんなで恐々としながら待機していたことが忘れられない。

夜中、必死でなんとかセットを完了させて本番。
優勝候補の地元埼玉県の成年女子チームの遠藤、木村ペアが当時はまったく違うルートを(同程度の難易度5.12C)左右の壁から特設の連絡壁を渡って、最後は中央トップの終了点で手を取り合って一緒にロワーダウンしてくる、という演出に唯一答えてくれて、会場は元より、自分にも感極まるものがあった。

他にも学生選手権や、3つの壁を延々トラバースさせたジャパンカップで優勝の加藤保恵、
セッターを辞めるきっかけになった時代を先取りし過ぎたボルダリングジャパンカップ。

ウォールコーディネーターとして灰になれた2007年のリードワールドカップ。

他にもたくさん。

思い出も、想いも、
自分の人生のなかでは一番心技体の充実していた期間に、
ここで燃焼したクライミングへの情熱。

いまはもう、すっかり燃えカスだけど、
ギリギリ消えてない(笑)

いつも、
そばにいてくれて、
手伝ってくれた加須のスタッフのみなさん。

本当に感謝しています。

ありがとうございました!

いろんな場面、
たくさんの時間を、
ここで過ごせて、
いまは幸せだったと心より思います。

新しくなっても、
また、
よろしくお願いいたします!

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